地方にドラマの撮影に新幹線で向かっているので、その時間を大検(高卒認定試験)の勉強に充てようと思ったのだけど案の定はかどらない。
参考書を読もうとしても、いつの間にかボケーっと外の景色を眺めている。
なので、今日は考えてみようと思う。
「何故、学校の勉強が超絶出来ないのに四十二歳まで特に問題なく生きてこれたのか」
わたくしみたいに今現在、学校の勉強が本当に苦手な親が何かしら役立てて貰えれば、これは素敵な事ではなかろうかと思うので。
と、いう訳で試験勉強はとりあえず置いておいて考えてみたいと思います。
まず、わたくしのいう学校の勉強が超絶出来ないというのはどのレベルの事を言っているのかと言いますと、算数でいえば小学三年生の分数はわからなくて、掛け算九九はできるぐらい、国語でいえば好きな本を読むのはできるが、高校の国語の教科書までなるとなにを言ってるのかは意味不明で、漢文、古文は全くわかりません、英語は自分の要求、腹減った、眠い、クソ野郎、朝飯前だよ、など簡単なモノはわかりますが、文法は全くわかりません。その他の教科に関しては小学生三年生レベルかと。
つまり、高卒認定試験の過去問に挑戦しても国語の漢字の読み以外ほぼわからないぐらいのレベルで、公立の小学校のテストで平均点を取れるとしたら小学生三年生までかと。
次に、何事も無く四十二歳まで生きてこれた。
これに関しては、定義が難しく「特に何事も無く」とは自分ではその様に思っているのですが、周りからしたら、「おいおい離婚はしてるじゃねぇか」とか「ラーメン屋さんをやる事は許可したが自分の名前と写真を使う事は許可してねぇよ、五千万よこせと前の所属事務所と揉めてたじゃねぇか」とか、十五歳の次男が「高校に進学しないって問題だろ」とか諸々言われたらこの話はおしまいなので、あくまで
問題というのは問題と感じたら問題なのであって、問題と感じて無いのであれば問題では無い
と、この場においてはそういう定義にしておきたいと思います。
つまりわたくしが言いたいのは、四十二歳の現在、自分で会社を立ち上げそろそろ十年になり、住宅ローンも終え、借金も無く、息子達も進学しないまでも元気に大きくなって手のかからない所まで来て、母親が介護になっても出来る限り大丈夫な様に想定して準備して今の所ストレスフリーで生活出来ている、といった人生ゲームのボードゲームで例えるならば半ば上がりの状態になっている、自分の人生なおいて学校の勉強が出来ない事で問題が発生する事は特に無くここまで来た、と、言った意味になります。もちろん、人生はゲームの様でゲームではないでしょうから、これからビックリする様な出来事も起こるかもしれませんがね。それはここでは置いておきましょう。
ちなみに学校の勉強が必要ないとか言ってるのではないですからね。いや、本当に正直な自分の気持ちを言えば、殆どの人は学校の勉強は小学生までで十分で、時代に合わせた沢山の選択肢があればいいんじゃね?昔の廃刀令みたいに、ムダに覚えるだけの勉強廃止令みたいのできてくんないかなぁ。もしくはわからない事の検索の仕方や、覚えたものの使い方を教えてくれる勉強とか増えたり、アホみたいに恋愛経験の多い先生の「恋愛の授業」とか出来てくんないかなぁ、とか色んな事は心で思ってますけど。
失礼、話がそれました。
で、何故そこまで学歴スペックの底辺のわたくしが普通に生きてこれたかと思う要因を考えてみたいと思います。
「自分を信じる力が半端ない」
もしかしたら、これに尽きるかもしれません。
わたくしの自分を信じる力は半端ありません。
人を信じる力も半端なく、様々な経験もしましたが、これは自分を信じているので、いつも「何とかなるだろう」と自分は乗り越えられると思い込んでおります。おそらく、「何かを信じる時」に自分を本当に信じている人と、自分を信じてない人の違いはかなり大きい気がします。
例えば、自分を微塵も信じてない人は他力本願でなんとかしようとする所が多いと思うので、変に人を信じたり、変なモノを信じて大変な事になった時、引き返す事や、考えを変える事が出来なかったり、人のせいにして思考が止まってしまったりするのではないかと思うのです。その結果、問題が長引いてしまったり、その事で人生が不安定になったりするのでは、と。逆に、本当に自分を信じている人はすぐに間違いや、おかしさに気がついて、軌道修正をしやすく、それを経験や、バネに更にパワーアップする人が多いと思うのです。
そもそも自分を信じてる人はノリでなんでも興味を持つ事はあっても、妄信的に何かを信じる事は少ないのではないかと。
それと同時にわたくしは信じてるという事は、自分の事を本当に大好きとも言えるかも知れません。
ここでいう自分の事が大好きは、自分の姿を鏡でみて「ヤベェ、俺カッコイイ」とナルシスト的な自分大好きではありませんからね。
確かにわたくしは鼻毛に白髪が生えて来ようが、ち◯毛に白髪が生えてきたりしていても、「ヤベェ、いい年の重ね方してるなぁ」とウットリはしますが、そこではありません。
自分の心だったり自分自信とどれだけ向き合って自分の事を知ろうと出来るか、という事ですからね。
これ、自分の事が相当好きじゃないと自分の嫌なな所やダメな所から目を背けてしまうと思いますから。
好きになるとそんな自分にも目を背けないで、しっかり向き合った上で、「そんな自分も良くね?だって人間だもの」と思います。
あれ、これ、今もの凄く立派な事を書いてるんじゃね?
失礼、自画自賛して話がそれました。
何が言いたいのかといいますと、自分の人生を点で見れば数々の問題や困難があったかもしれませんが、ほとんどの問題には原因があるわけでして、その原因を見つけるのには、妄信的な考えだと抜けられないのではないかと思うのです。
問題には必ず原因があると言われておりますが、原因を取り除かないと似たような問題がやって来る事が自分の人生においてはほとんどでした。
そんな時、自分の事を本当に好きで信じてると「まぁ、オレ様ならなんとかなるだろう」となってとりあえず、しがらみや恐怖に思ってる事などを全てを放り投げる事が出来る訳です。
そうすると、思わぬ所にある問題の原因を見つけられて、その問題がクリアーになるわけです。
もう少しわかりやすく、言いますと、例えば金銭的な問題で揉める問題があったとします。
まぁ、世の中の問題の殆どは根底に金銭的なモノが絡んでいるとは思いますが、そんな時、普通、自分は損をしたくない、と考えてしまい、何とか今ある積み上げて来たモノを守ろうとします。
しかし、自分を本当にに信じてると「まぁ、オレ様なら、また一から稼げるから今あるものはとりあえずくれてやるよ」と考える訳です。そして解決。
逆に言うと自分を信じてない人は「これを取られたら俺は生きていけない、これが無くなったら人生を詰んでしまう、これがないと幸せが終わってしまう」などなど考え、問題が長引いて大きくなってしまうと思うのです。
「俺にはこの先稼げる力がない、一人でもう一からやっていく力がない」と、ある意味信じてるかもしれませんが、自分の無限大の可能性は信じて無いのでは?と思うのです。
自分を信じていればいるほど揉めてる時間も被害も最小で乗り越えて行くので、その分たくさんの経験を積めて似たような問題がやって来る事が少なくなり、同時に、その先の同じ様な問題に不安を感じなくなります。(わたくし思うに、問題は長引けば長引く程、段々と解決する事が無理ゲーに近くなる気がします)
そうなると、自分をどんどん信じる様になって絶大な自信になり、そんな自分を更に好きになって行きます。
そして、不安を恐れず、思い立ったら色んな事に挑戦します。
人がやらなそうな事にも率先して飛び込んで行き経験も多くなるので、意外と色んな分野で仕事やお金になってしまい、仕事に関しては困るという事が少なくなってくるんですよね。
例であげると、わたくし29歳ぐらいの時に所属していた事務所が経営不振になったので「じゃぁ、俺、飲食経験してみたいんでラーメン屋さんやってみようと思いますっ!」と、半年ぐらい知人の店でラーメン屋さんでバイトして、自分の名前のラーメン屋さん5店舗ぐらい出店しましたからね。(急激に儲かり過ぎて大変な目に遭いましたけど、これ興味ある人は過去の記事読んでくださいませ。)
だから、学校の勉強が出来ない事で発生する問題はなく、ここまで生きてこれたのではないかと自分の主観では思いました。
これはあくまで、あくまでわたくしの人生においての話なのですからね。
いや、何度も言いますけど、学校の勉強は科学的な問題やテクノロジー的な問題は解決出来ると思いますから間違いなく必要ですよ。
それに、今楽しく生きれてるのは、「世の中の問題を少しでも無くそう」と、一生懸命勉強してきた方々のお陰で今の自分の身の回りの便利な生活がある訳ですからね、それを忘れてもいけません。
(超絶頭の良い兄もいつも助けてくれる事も忘れておりません)
その上で、自分は学校の勉強は出来なくても、人にはそれぞれの役割や役回りを見つけていければ行ければ良いと思い、現在のわたくしは父親として高卒認定試験に挑戦してる訳です。
が、こればっかりは一回で受かる気がしない、、、。
こればっかりは自分を信じる事が出来ない、、、なんでだろう。
明らかに矛盾が生じてるではないか、、、何故だ、、。
もうそろそろ新幹線が目的地に着くので、また今度考えよう。
勉強が苦手な親御さんに何か役に立てて貰える様な事を書ければと思ったのですが、、、、すいませんでした、なんのお役にも立たなくて、心よりお詫び申し上げます。